見守りつづけること
大統領、来日していましたね。
今日から4月です。
先日まで、某紳士服小売り会社で短期で働いておりましたが(レディースしかわからないので、私にメンズスーツやネクタイのことなど聞かないように・・・)、入学式が中止になった大学などもけっこうあるそうです。この日のためにスーツを買ったのに、そのスーツの引き取り(お直しなどしていて)に来た方、主にお母様がおっしゃっていました。この時期だからしょうがないというのはあるけど、残念だろうな・・・・
こうした〈隔たり〉について、もう少し考えてみようと思います。
いまわたしは、控えめの生活をすることが、被災に遭わずにすんだ者にできる精一杯のことだと言いましたが、逆に、余所では普段どおりの生活をしているということが復興に向けての「希望」になる、あるいは経済的支援になると考える人もいるはずです。被災地でも同様のことはあるでしょう。上空を旋回する報道のヘリコプターの轟音に、救出を求める人の声が聞こえないと憤る人もいれば、「だれかが見守ってくれている」と感じる人もいるでしょう。人の思いというものはこのように、立っている場所でずいぶん異なります。同じ被災地のなかでも〈隔たり〉はあるのです。
阪神淡路大震災のときに、わたしは当時神戸大学の附属病院に勤務しておられた精神科医の中井久夫先生から一つの言葉を教わりました。copresence という言葉です。中井先生はこの言葉を「いてくれること」と訳し、他人のcopresence が被災の現場でいかに重い意味をもつかを説かれました。被災直後、中井先生は地方の医師たちに救援の要請をなさいました。全国から多くの医師が駆けつけたのですが、中井先生はじめ神戸大学のスタッフが患者さんにかかりっきりで、応援団になかなか交替のチャンスが、回ってこない。そのうちあまりに長い待機時間に小さな不満が上がりはじめたとき、中井先生はその医師たちに集まってもらい、「予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる」と語りはじめました。そして、「その場にいてくれる」という、ただそれだけのことが自分たちのチームにとってどれほどポジティヴな意味をもつかを訴えられたのです。じっと見守ってくれている人がいるということが、人をいかに勇気づけるかということは、被災の現場だけでなく、たとえば子どもがはじめて幼稚園に行ったときの情景にも見られることです。子どもがはじめて幼稚園に行ったとき、母親から離れてひとり集団のなかへ入ってゆくときの不安は、だれもが一度は経験したはずです。ちらちら母親のほうをふり返り、自分のほうを見るその顔を何度も確認しながら、恐る恐るやがて仲間となるはずの見知らぬ他者たちの輪のなかへ入ってゆく……。人にはこのように、だれかから見守ら
れているということを意識することによってはじめて、庇護者から離れ、自分の行動をなしうるということがあるのです。そしていま、わたしたちが被災者の方々に対してできることは、この見守りつづけること、心を届けるということです。
個人的には、日本中の、世界中のこの被災地への思いが、1か月先も1年先も変わらず続いてくれるといいな・・・と願っています。
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